「――はい?」「純也さん、愛美です。珠莉ちゃんも一緒なんだけど。今、おジャマして大丈夫? もう着替えって済んでる?」「ああ、大丈夫だよ。どうぞ」「――だって。珠莉ちゃん、ほら」 純也さんの返事を聞いてから、愛美は珠莉に入室を促した。「おジャマしまーす」「叔父さま、失礼します」「二人とも、どうした?」 二人を迎え入れてくれた純也さんは、ボルドー色のスーツにグレーのカラーシャツ、紺色のネクタイというスタイルだった。(わ……! やっぱり純也さんのスーツ姿、カッコいい……!)「……叔父さま、またそんなキザったらしい格好を」 一人ときめいている愛美とは逆に、珠莉は叔父の独特なカラーセンスに呆れて一言物申さずにはいられなかったらしい。「珠莉、お前はわざわざ俺にそんなことを言いに来たんじゃないだろ」「ああ……、そうでした。つい口が滑ってしまって」「あのね、純也さん。珠莉ちゃんがちょっと、純也さんに相談に乗ってほしいことがあるんだって」 珠莉も自分からは言い出しにくいだろうと思い、愛美が先に助け舟を出してあげた。「俺に……相談? 珠莉、言ってごらん?」「ええ……。叔父さま、実は私――」 珠莉は叔父に、将来モデルになりたいという夢があること、それを両親には猛反対されそうだから打ち明ける勇気がないことを話した。「――私も半ば諦めかけていましたの。でも愛美さん、さやかさんとお友だちになって、あと叔父さまにも感化されて。やっぱり諦めきれなくて、本気で目指そうと思うようになりましたの。ただ……、お父さまとお母さまにはまだ打ち明ける勇気が出なくて……。叔父さまが味方について下さったら、私も話しやすくなると思うんですけど」 一言も口を挟まず、うんうんと頷きながら話を聞いてくれた純也さんが、珠莉の話が終わったタイミングで口を開いた。「一つだけ確認させてもらうけど。珠莉、お前は本気でモデルを目指すつもりでいるんだな?」「ええ、もちろん本気です」「……分かった。お前が本気なら、俺も全力でお前の夢を応援するよ。お前が兄さんとお義姉さん――両親に打ち明ける時にも、俺が援護射撃してやるから。そこは信用してくれ」「……ええ! 叔父さま、ありがとうございます! 私、必ず叔父さまの恩に報いるようなモデルになりますわ!」「わたしからもありがとう、純也さん!」(や
「――ところで純也さん。今のわたし、どう……かな? 髪とメイク、珠莉ちゃんがやってくれたの」「珠莉が?」「うん。……どうかな?」 純也さんは惚(ほう)けたように愛美をしばらく見つめた後、やっと感想を言ってくれた。「…………うん、スゴく可愛いよ。ドレスもよく似合ってる」「ありがと! このドレスは田中さんからのクリスマスプレゼントなの。っていうか、わたしが今身に着けてるもの一式」「……へぇ、そうなんだ」(あ、純也さん、気づいたな。わたしが今着てるのが、自分が選んだものだって) 〝あしながおじさん〟こと田中太郎氏の正体が純也さんだと分かっている愛美には、彼のリアクションがわざとらしく感じた。けれど、知らないフリをしていることに決めたので、それはあえてスルーした。「……あ、そうだ。わたしからも一つ、純也さんにお願いがあるんだけど」「愛美ちゃんも? なに?」「わたし、今度長編小説を書くことになって。また純也さんを主人公のモデルにしようと思ってるんだけど」「え、また俺がモデル?」「愛美さん曰く、叔父さまは小説のヒーローに持ってこい、なんですって」「うん。……でね、舞台を東京にしたいんだけど。純也さんに、わたしがまだ行ったことない東京の名所とか案内してもらいたいなぁ、って」 脱線しかけた話を戻し、愛美はお願いを言った。「いいよ。明日、一緒にあちこち回ろう。前回は渋谷~原宿方面だったから、銀(ぎん)座(ざ)とか浅草(あさくさ)とかかな」「うん、いい! あと、スカイツリーにも行ってみたいな」「いいね。じゃあそこも」「やったぁ♪」「あらあら。愛美さん、よかったじゃない。純也叔父さまとデートできることになって」「で……っ、デデデ……デート!?」 珠莉の口から思いもよらない言葉が飛び出し、愛美は思いっきりうろたえた。(好きな人と二人きりでお出かけ……。そっか、それって「デート」ってことになるのか……)「こら、珠莉! からかうんじゃない! ……でも、そういえば俺と愛美ちゃんってデートらしいデートはしたことなかったな」「あ……そういえば、そうかも。夏には長野で二人きりで色々遊んだりしたけど、あれはデートにならないし」 バイクでツーリングしたり、二人で山登りをしたり……は〝デート〟のカテゴリーに入れていいものか……。「じゃあ、明日が初デート
* * * * ――辺唐院家で行われるクリスマスパーティーは、牧村家のそれとは趣向も規模も大違いだった。 食事は立食スタイルなのでテーブルマナーをうるさく問われることはないし、ケーキなどのスイーツも出されている。のだけれど。 招待客は多いし、それもセレブばかり。話す内容は高級ブランドだの、身に着けているジュエリーがいくらかかっただの、株や投資の話題だのという上辺だけの会話ばかりで、その人自身の話題や身近な話題はほとんど出てこない。 愛美も「これも取材の一環」と、どうにか話に食らいつこうと頑張ってはみたけれど、元々が次元の違いすぎる人たちの話題なので、聞いたところでまったく理解が追いつかなかった。 「う~……、疲れたー……」 脳が完全にキャパオーバーを起こし、テーブルにグッタリと突っ伏していると、目の前にクラッシュアイスが浮かんだ冷たいオレンジジュースのグラスがゴトリと置かれた。「愛美ちゃん、お疲れ。こういう雰囲気って、慣れてないと疲れるよな」「あ、純也さん……。ありがと」 顔を持ち上げると、グラスを置いてくれたのは遅れて下りてきた純也さんだった。 自分も飲みかけのオレンジジュースのグラスを持っていて、愛美が持ち上げたグラスに「乾杯!」と軽くコツンと合わせた。「食事は済んだ? こういうところじゃ、あんまり食が進まないだろうけど」「ううん、けっこう食べられたよ。美味しそうなものがいっぱいあったから。……ジュース、いただきます」 ジュースを一気に半分ほど飲んだ愛美は、ホストとして招待客の社交辞令に付き合っている珠莉に視線を移す。「珠莉ちゃんはスゴいなぁ。あの輪の中にすんなり入っていけるんだもん。わたしはムリだったなぁ。何ていうか、わたし一人だけハブられてるような疎外感が……。今も多分、純也さんがいてくれなかったら一人だけ浮いてたよ」「まあ、珠莉は小さい頃からこういう場に慣れてるからな。俺はキライだけど、今日は愛美ちゃんが壁の花にならないようにここにいるんだ」「〝壁の花〟?」「うん。欧米では、パーティーの席で誰からも話しかけられない人のことを〝壁の花〟って言うんだよ。何かちょっとシャレてるだろ?」「ふふふっ、うん」 確かに、彼がいてくれなかったら愛美は一人だけ疎外感を感じてパーティーを楽しめなかった。同じくこういう場が好きじ
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。 この手紙は東京の白金台にある珠莉ちゃんのお家で書いてます。 寮には平泉さんっていう、年配の執事兼運転手さんが立派なリムジンで迎えに来ました。 まだ〈わかば園〉にいた頃、わたしはよくさっそうとリムジンに乗り込んでお屋敷に帰っていくお嬢さまになった空想をしてました。今日、珠莉ちゃんがリアルにその空想のお嬢さまに見えて、何だか面白かったです。あ、わたしも一緒に乗って来たんだった……。 平泉さんはすごくいい人で、「モデルになりたい」っていう珠莉ちゃんの夢も、純也さんと同じように応援したいって言って下さって。珠莉ちゃんも、こんな身近に味方が一人増えたことをすごく喜んでました。 珠莉ちゃんのお家は靴を脱がなくていい欧米の生活スタイルで、〈双葉寮〉もそうですけど、一般のお家にもそんな家庭があったなんてわたしは知らなくてビックリしました。 着いた時、お家の前にはもう純也さんの車が停まってました。 最初に出迎えて下さったのは家政婦の高月由乃さんで、なんか冷たい感じの女の人でした。この人もそうだけど、辺唐院家の人たちはみんななんかヘンです(あ、純也さんと珠莉ちゃんは別ですけど)。特に、珠莉ちゃんのお母さまはものすごくイヤな感じの人。さやかちゃんのお母さんとは正反対の人です。わたし、将来結婚しても、絶っっ対にこの家みたいな家庭にはしたくないって思いました。……あ、招待されたお家をディスるのってよくないですよね。おじさま、ここだけの話ってことにして下さい。 だって、珠莉ちゃんのお母さまにはムカついたんですもん! わたしが自己紹介してるのに、途中で遮ってわたしの両親のことを訊いてきたの。で、両親が亡くなってて中学卒業までは施設で育ったって言ったら、わたしを値踏みでもするみたいに見て、マウントをとろうとしてたんです! でも、ちょうどその時に純也さんが現れてガツンと言ってくれて、わたしスカッとしました。 辺唐院家の人たち、特に珠莉ちゃんのお母さまは純也さんが養護施設とかに寄付したりしてることを、「下らない」って思ってるみたい。もっとセレブらしいことにお金を使えばいいのに、って思ってるみたいです。でも、純也さんは庶民的なお金の使い方だってするんですよ。スイーツだって買うし。 純也さんはわたしと
夜は広いメインダイニングで行われたクリスマスパーティーに出ました。おじさまにおねだりしたドレスや靴でオシャレをして、珠莉ちゃんに可愛くヘアアレンジやメイクもしてもらって。純也さんに「すごく可愛い」って褒めてもらえました。大好きな人にそう言ってもらえるのって、女の子にとってはものすごく嬉しいことなんですよ! 最近の男の人って、そういうことを女の人に面と向かって言える人が少ないから。 でも、パーティー自体は「ザ☆セレブの集まり」って感じでわたしはあまり楽しくなかったな……。 食事は立食スタイルのビュッフェで、マナーとかうるさく言われなかったんですけど(だからわたし、美味しいものをモリモリ食べまくってました!)、出席してた人たちの話題がなんかつまらなくて。だって高級ブランドとか、身に着けているジュエリーがいくらかかったとか、株や投資の話題とかそんなのばっかりで、建前の会話しかなくて、その人自身の話題とか身近な話題はほとんど出てこないんです。 わたしも「これも取材だ」って思って、話の輪に加わろうと頑張ってみたけど聞いても全っっ然分からなくて、頭がパンクしそうでしたでした。その後に純也さんと話すとホッとしました。 純也さんはわたしが〝壁の花〟にならないために、パーティーに出たんだって言ってくれました。欧米では、パーティーの席で誰からも話しかけられずに孤立する人のことを〝壁の花〟って言うんだそうです。なんだかオシャレな言い方ですよね。わたし、今年の冬は珠莉ちゃんのお家で過ごすことにしたのを後悔し始めてたんですけど、純也さんがいてくれるおかげでその気持ちは半減しました。 そして、明日は純也さんが、東京でわたしがまだ行ったことのない銀座とか浅草とか、スカイツリーに連れて行ってくれることになりました! わたしにとっては人生で初めてのデートです!! 本来の目的は新作のための取材なんですけど、今からものすごく楽しみでドキドキしてます……。 とにかく、明日はちゃんと取材もしつつ、初デートを楽しんできます。デートの様子はまた改めて……。ではおじさま、おやすみなさい。 かしこ 十二月二十四日 初デート前にドキドキ♡の愛美』****
――愛美は「ドキドキして眠れない……」と思いつつも、フカフカのベッドでぐっすり眠り、翌朝七時前に目が覚めた。「わ……とうとう来ちゃった。純也さんとの初デートの日……」 室内にある洗面台で、冷たい水で洗顔をしてパッチリと目が覚めた愛美は、クローゼットの扉を開けた。 寮から持ってきた服はすべて、このクローゼットに移してある。ほとんどがこの家に滞在するために新しく買った服だ。「初デートか……。今日、何着て行こうかな……」 純也さんは基本、愛美がどんな服を着ていても「可愛い」「似合ってるよ」と言ってくれる人だけれど。デートとなると、やっぱり普段とは違う格好がしたくなる。いつもと違う自分を彼に見てほしいというのがオトメ心というものだ。「……買ったばっかりの赤いニットワンピース、これにしよう。寒いから黒のタイツを穿いて、足元は茶色のブーツで……。あとはコートを着れば完璧かな」 ニットワンピースはオーバルネックなので、中にピンク色のカラーシャツを着込む。第二ボタンまで開けて、身に着けた〝あしながおじさん〟から贈られたネックレスが見えるようにした。「ヘアメイクはまた珠莉ちゃんにお願いしよう」 髪型はともかく、簡単なメイクくらいは自分でできるようになりたいなぁと愛美は思う。たとえば口紅を塗るくらいは……。「――愛美さん、おはよう。昨夜はよく眠れて?」 コンコン、とドアがノックされて、開いたドアから珠莉が顔を出した。「おはよ、珠莉ちゃん。うん、おかげさまで。……初デートの前だし、ドキドキして眠れないかと思ったけど」「それはよかったわ。――純也叔父さまがね、朝食は二階のダイニングで、三人だけで食べましょうっておっしゃってるんだけど。あなたもそれでよろしくて?」「うん、いいよ。っていうか二階にもダイニングがあるんだ?」 ダイニングルームって、一軒の家に一ヶ所しかないものだと思っていたので、愛美はまた驚いた。 確かに昨日の今日で、珠莉の両親や祖母と顔を突き合わせて朝食……というのは愛美のメンタルにかなりの悪影響が出そうだ。特に、珠莉の母親の顔を見たら何をするか分からないので自分でも怖い。「ええ。じゃあ、朝食は八時ごろにね。――あら、ずいぶん気合いを入れてオシャレしたのねぇ。叔父さまもきっと『可愛い』『ステキだ』って褒めて下さるわよ」「えっ、ホントに?
「――今日は街を歩くんだから、髪型は……そうね、五月に原宿へ行った時みたいな感じでどうかしら? さやかさんみたいに上手にはできないかもしれないけど」「ああ、いいねぇ。大丈夫、やってもらうんだから、わたし文句は言わないよ」 というわけで、ヘアスタイルは編み込みを取り入れたハーフアップに決まった。「さやかほど上手くできない」と珠莉は言ったけれど、愛美にはその出来映えがあまり変わらないように見えた。「メイクは昨夜のパーティーの時ほどしっかりしなくてもよさそうね。ベースとリップくらいでいいかしら。リップの色は……これなんかどう?」 珠莉が勧めた口紅の色は、オレンジがかった淡いピンク色。この上からグロスを乗せれば、可愛くて少し大人っぽい口元になるだろう。「うん、いいかも」 というわけで、珠莉は手早くメイクに取りかかる。自然な仕上がりになるようファンデーションを薄く肌になじませ、その上から軽くフェイスパウダーをはたき、リップブラシで口紅を塗り、別のリップブラシで淡いピンク色のグロスを薄く重ねた。「……はい、できましたわ。仕上がりはどう?」「おぉ……、可愛くなってる。ね、珠莉ちゃん。リップの直し方、わたしにも教えてくれない?」「ええ、いいけど……。よかったら、この口紅はあなたに差し上げてよ。使いかけで申し訳ないけど。落ちたら塗り直すだけでいいから」「いいの? こんなに高そうな口紅もらっちゃって」 珠莉がくれた口紅は高級ブランドのもので、多分これ一本だけで数千円はする代物だ。当然ドラッグストアなどでは売られておらず、デパートなどのコスメ売り場でしかお目にかかれない。「いいのよ。私はまたいつでも買えるし、今日は何たってあなたと純也叔父さまとの初デートですもの。記念に差し上げるわ」「……うん、ありがと」 愛美もお年頃の女の子なので、一応リップクリームとコンパクトミラーの入ったポーチくらいは持ち歩いている。この口紅もそこに入れて持っていくことにした。「――さ、叔父さまはもうダイニングにいらっしゃるはずだから、朝食を頂きに行きましょう」「うん」 愛美は珠莉に案内され、二階の中央にあるというセカンドダイニングルームへ向かった。
* * * *「――おはようございます、叔父さま」「おはよう、純也さん」 二人の少女がセカンドダイニングへ行くと、純也さんはスマホでどこかへ電話をしていた様子。(純也さん、今日はわたしとデートだよね? 一体どこに電話を……?) 通話を終えた彼は、姪と恋人に気づいて振り向いた。「おはよう、二人とも。――愛美ちゃん、昨夜はよく眠れた?」「うん。緊張して寝られないかと思ったけど、ベッドの寝心地がよくて。……ところで、どこに電話してたの?」「ふふふっ、それはお楽しみに♪ 愛美ちゃんが喜びそうなところだよ。今日も珠莉に髪型とメイクしてもらったのかい? いいね、可愛いよ」「ありがと。今日はデート向きのヘアアレンジとメイクにしてもらいました」 純也さんに今日も褒めてもらい、愛美は照れたように自分の髪に手を遣った。こうして毎回褒めてもらえると、オシャレのし甲斐(がい)があるというものである。「じゃあ二人とも、テーブルに着いて。そろそろ由乃さんが朝食を運んできてくれる頃だから」「うん」「ええ」 二人が席に着いたところへ、家政婦の由乃さんが若いメイドさんと二人で三人分の朝食を運んできた。「おはようございます、みなさま。朝食をお持ち致しました」 由乃さんがクロワッサンを山ほど盛ったバスケットと取り皿、そして二人分のコーヒーポットとカップ、珠莉用のティーポットとカップなどが載ったワゴンを、メイドさんが三人分のスープのカップとスプーン、ベーコンエッグのお皿が載ったワゴンを押してきた。「ありがとう、由乃さん。わざわざすまないね。後はこっちでやるから」「坊っちゃま、痛み入ります。では、私どもはこれで失礼致します」 二人の使用人たちが下がっていくと、あとの給仕は純也さんがしてくれた。「……ねえ、珠莉ちゃん。あの人たち、どうやってこれを運んできたの?」「我が家にはホームエレベーターがあるのよ。それを使って運んできたの」「へぇ、ホームエレベーターかぁ。便利だね」 純也さんは普段からし慣れているのか、愛美たちのそんな会話を耳に入れつつ料理を愛美と珠莉・自分の前に並べ、飲み物の給仕もしてくれた。コーヒーのお砂糖は各自で好みに合わせて入れるようにしたようだ。「――愛美さん、食べた後にまた口紅を直してあげるわね」「ありがと、お願い」「じゃあ食べよう。
「……お二人とも、聞こえてるんだけど」「あっ、ゴメン!」「こっちの話は気にしないで、読む方に集中して?」 さやかと愛美が謝り、そう言うと、珠莉はひとつため息をついた後にまた画面に視線を戻した。「集中して」と言ったって、ムリな話ではあると思うのだけれど――。 ――それから一時間ほど後。「愛美さん、読み終わりましたわよ」 珠莉がパソコンの画面を閉じて、愛美に声をかけてきた。「えっ、もう読んだの!? 早かったね」 あの小説は原稿用紙三百枚分ほどの長さがあるので、じっくり読み進めると読み終えるまで二時間以上はかかるはずだ。ということは、珠莉は読むスピードを速めたということになる。「ええ、愛美さんが私からのアドバイスを待ってると思って、急いで読んだのよ。――それでね、愛美さん。この小説で私が感じたことなんだけど」「うん。どんなことでも大丈夫だから、忌憚なく言って」「じゃあ、述べさせてもらうわね。――私の感じたことを率直に言わせてもらうと、やっぱりこの小説の中からは、あなたのセレブに対する苦手意識というか偏見というか、そういうものが読み取れたの。出版に至らなかった理由はそこなんじゃないかしら」「あー、やっぱりそうか。編集者さんからも同じこと言われたんだ」 書籍として流通するということは、この小説が多くの人の目に触れるということだ。読んだ人の中には気分を害する人も出てくるかもしれない。プロとして、そういう内容の本を世に送り出すわけにはいかないと判断されたのだろう。 もしこの小説を珠莉ではなく、純也さんに読んでもらったとしても、きっと同じことを言われたに違いない。「『出版できない』って聞かされた時はショックだったけど、これで納得できたよ。ありがとね、珠莉ちゃん」 これで、初めての挫折からはすっかり立ち直ることができそうだ。愛美はもう前を向いていた。「いえいえ、私でお役に立ててよかったわ。でもあなた、思ったより落ち込んでいないみたいね」「そういやそうだよねー。『ヘコんだ」って言ったわりにはけっこう前向いてるっていうか」「うん。もうわたしの意識は次回作に向いてるから。いつまでも落ち込んでられないもん」 二年前の愛美なら、いつまでもウジウジ悩んでいただろう。でも、もうネガティブな愛美はいない。純也さんに釣り合うよう、いつでも自分を誇れる人間でいた
「ええ、いいわよ。私でよければ。とりあえず着替えさせてもらうわね。それからでもいいかしら?」「あ、うん。もちろんだよ。ありがと。なんかゴメンね、帰ってきたばっかりなのに」「いいのよ、愛美さん。謝らなくてもよくてよ」「ありがとねー、珠莉。アンタと愛美、すっかり仲良くなったよね。最初の頃はさぁ、愛美に『叔父さま盗(と)られた~!』とか言ってたのに」 さやかは二年以上も前の話を持ち出して、二人の関係がすっかり変わったことに感心している。あれはこの高校に入学した翌月で、純也さんが初めて学校を訪ねてきた時のことだ。 それに対して、珠莉が制服から私服に着替えながら答える。「あの頃はまだ、純也叔父さまが愛美さんのいう〝あしながおじさま〟の正体で、お二人が恋人同士になるなんて思ってもみなかったもの。本当に、人生って何が起こるか分からないものよね」「うん……、ホントにね」 珠莉の最後のセリフに愛美も頷いた。純也さんが〈わかば園〉の理事をしていなければ、理事であったとしても愛美の学費を援助すると申し出てくれなければ、彼女は今この場にいなかったのだ。山梨県内の公立高校で、悶々とした高校生活を送っていただろう。もしくはどこかの温泉旅館で住み込みの仲居さんとして働いていたとか。「――はい、お待たせ。着替え終わったから原稿を読ませてもらうわ。データは残してあるのね?」「うん。わたしのPCのデスクトップと、一応USBにも保存してあるよ。待ってね、今ファイル開くから」 愛美は自分のノートパソコンで、ボツになった原稿のファイルを開いた。「これがその小説だよ」「分かったわ。じゃあ、ちょっと失礼して」 珠莉は愛美に場所を譲ってもらい、ブルーライトカットのためにPC用の眼鏡(メガネ)をかけて小説の原稿を読み進めていった。「……珠莉ちゃんって普段は眼鏡かけないけど、たまにかけるとすごく知的に見えるよね」「顔立ちのせいなんじゃない? あたしが眼鏡かけてもああはならないよ。あたし、上向きの団子っ鼻だからさ」 珠莉が真剣な眼差しで原稿を読み進める傍(はた)で、愛美とさやかはヒソヒソと彼女の意外なギャップを発見して盛り上がっていた。愛美に至っては、彼女の頼みごとをした本人だというのに……。
「あ、愛美。おかえり。――どうした? なんかちょっと元気ないじゃん?」「うん……。さやかちゃん、鋭い。ちょっとね、ヘコんじゃう出来事があって」「もう友だちになって三年目だよ? 元気がないのは見りゃ分かるって。今日は編集者さんと会ってたんだっけ。じゃあ、作家の仕事絡み?」「正解。詳しい話は珠莉ちゃんが帰ってきてからするけど、長編の原稿がボツ食らっちゃってね」「えっ、ボツ!? 長編ってあれでしょ、冬からずっと頑張って書いてて、夏休みの間に書き上げたっていう、純也さんが主人公のモデルだった」「うん、そうなの。あれ」 さやかがズバリ、どんな作品だったか言い当てて愛美も頷いたけれど、さすがに純也さんが主人公のモデルだったという情報まで言う必要はあっただろうか?「う~ん、そっかぁ……。珠莉、部活は五時までだったと思うから。帰ってきたら一緒に話聞いてもらおう。珠莉の方が、あの小説のどこがダメだったか分かると思うんだ」「そうだね。わたしもそう思ってた」 一応は社長の娘だけれど庶民的なさやかより、生まれながら名家のお嬢さまである珠莉の方が、ダメ出しのポイントが適格だと思う。何せ、モデルは彼女の血の繋がった叔父なのだから。 それから三十分ほどして、部活を終えた珠莉が部屋に帰ってきた。「――ただいま戻りました」「珠莉ちゃん、おかえり。部活お疲れさま」「珠莉、おかえりー。何かさあ、愛美が聞いてほしい話があるんだって」 珠莉がクローゼットにスクールバッグをしまうのを待ってから、二人は彼女に声をかけた。 彼女は最近、週末は雑誌の撮影で忙しいけれど、平日の放課後はまだ部活があるので撮影は入っていないらしい。こちらも学業優先なのだ。「――愛美さん、私に聞いてほしい話ってなぁに?」「えっと、わたしが冬休みから長編小説を書いてたこと、珠莉ちゃんも知ってるよね? ……純也さんが主人公のモデルの」「ええ、知ってるわよ。夏休みの間に書き上がって、編集者さんにデータを送ったらしいってさやかさんから聞いたけど。あれがどうかして?」「実はね、あの小説、ボツになっちゃったの。今日、編集者さんから『あれは出版されないことになった』って聞いて。でね、どういうところがダメだったのか、珠莉ちゃんに読んで指摘してもらえたらな、って思ったんだけど……」 珠莉はプロの編集者ではないので、
「――そうだ! 次回作は〈わかば園〉のことを題材にして書こう」 自分が育ってきた、よく知っている場所のことなら書いていてリアリティーもあるし、作品に説得力を持たせることもできる。当然のことながら、主人公のモデルは愛美自身だ。「よし、次回作はこれで決定! 今年の冬休み、久しぶりに〈わかば園〉に帰って園長先生とか他の先生たちに話聞かせてもらおう」 愛美の記憶にあることはまだいいけれど、憶えていない幼い頃のことや、愛美が施設にやってきた時のことは園長先生から話を聞かなければ分からない。――それに、愛美の両親のことも。(わたし、お父さんとお母さんが小学校の先生で、事故で亡くなったってことしか知らないんだよね。どんな両親で、どんな事故で命を落としたのか知りたいな) 施設で暮らしていた頃は、まだ幼くて話しても分からないから教えてくれなかったんだろう。でも、愛美も十八歳になって、世間では一応〝大人〟なのだ。今ならどんな話を聞かされても理解できると思う。それがたとえどんなに残酷な話でも、聞く覚悟はできているつもりだ。「……うん、大丈夫。わたしはもう大人なんだから、どんな話を聞いても怖くない」 愛美は決意を新たにしたことで、自身の初めての挫折とも向き合うことを決めた。「今回ボツになったこと、報告しないわけにはいかないよね……」 もちろん〝あしながおじさん〟に、である。ガッカリされるかもしれない。けれど、失望はされないと思う。だって、純也さんはそんなに冷たい人ではないから。「でも、慰められるのもまたツラいんだよね。そこのところは手紙で一応釘を刺しとくか」 部屋に帰ったら〝おじさま〟宛てに手紙を書こう。そう決めて、愛美は寮の玄関をくぐった。「――相川さん、おかえりなさい」「ただいま戻りました。あ~、晴美さんとこうして話せるのもあと半年足らずかと思うと淋しいです」 寮母の晴美さんと挨拶を交わせるのも、高校卒業までだ。大学に進めば寮を変わらなければならないので、当然寮母さんも違う人になる。「私も淋しい~! でも、寮母として寮生の巣立ちを送り出さなきゃいけないから。毎年淋しく思いながら、断腸の思いでそうしてるのよ」「そうなんですね。あと半年、よろしくお願いします」 晴美さんにペコッと頭を下げてから、愛美はエレベーターで四階へ上がった。角部屋の四〇一号室が、三
「……あの、ボツになった理由は?」「あの作品、セレブの世界を描いてますよね? その描写が不十分というか、かなり不適切な描写があったと。先生個人の偏見のようなものが含まれていたようなんです」「ああ~、そう……ですよね。わたし、実は一部の人たちを除いてセレブの人たちって苦手で。冬休み、セレブのお友だちの家で過ごしていた時に色々と取材したんですけど。その時もあまりいい印象は持てなかったです」 純也さんとデートした日のこと以外にも、愛美はあの家に出入りしている富裕層の人たちを観察したり、クリスマスパーティーの時に感じたことも小説の中に織り込んでいた。多分、それが原因だろう。「なるほど……。冬休みといえば二週間くらいですか。富裕層の人たちのことを正しく描写しようと思えば、その程度の日数では足りなかったんでしょう」「ですよね……」 愛美はすっかりヘコんでしまい、大きくため息をついた。(わたしってホントは才能ないのかな……。純也さんの買い被りすぎ? だったら、彼にムダなお金使わせちゃっただけかも)「先生、そんなに落胆しないで。今回は残念な結果でしたけど、次回作でいい作品をお書きになればいいんです。先生はまだ高校生ですし、先生の作家人生はまだ始まったばかりなんですから。焦らず、じっくりといい作品を送り出していきましょう。僕も協力を惜しみませんから」「はい……、そうですね。次回作は頑張ってみます」 ――愛美持ちで会計を済ませて岡部さんと別れた後、愛美は自分でも悪かったところを反省してみた。(岡部さんに原稿を送る前に、珠莉ちゃんにデータを送って読んでもらえばよかったかな。珠莉ちゃんなら何か的確なアドバイスをくれたかも) 愛美にとっていちばん身近なセレブが珠莉である。彼女に最初の読者になってもらえば、「ここがよくない」とか「ここはこういう書き方の方がいい」とか助言してもらえて、もっといい作品になったはず。そうすればボツを食らうこともなかったかもしれない。(……まあ、〝たられば〟言いだしたらキリがないし、もう終わったことだからどうしようもないんだけど) 済んでしまったことを悔やむより、前に進むことを考えなければ。「次回作……、どうしようかな」 寮への帰り道、悩みながら歩いていた愛美の頭を不意によぎったのは、彼女が中学卒業まで育ってきたあの場所のことだっ
* * * * それから数週間後の放課後。この日は文芸部の活動はお休みだったので、短編集のゲラの誤字・脱字などのチェックを終えた愛美は学校の最寄駅前にあるカフェに担当編集者の岡部さんを呼び出した。「――はい。相川先生、お疲れさまでした。これでこの短編集『令和日本のジュディ・アボットより』は無事に発売される運びとなります」「よろしくお願いします。わたしも発売日が待ち遠しいです」 愛美は確認を終えたゲラを大判の封筒に入れる岡部さんに、改めてペコリと頭を下げた。 ゲラの誤字や脱字を赤ペンで修正していく作業は初めてだったけれど、思いのほか少なかったので楽しくこなすことができた。あとは一ヶ月後、本屋さんの店頭に並ぶ日を待つだけだ。(純也さん、聡美園長とか施設の先生たちにも宣伝してくれたかな。もちろん自分では買って読んでくれるだろうけど) 彼は〈わかば園〉を援助してくれている理事の一人でもあり、あの施設の関係者で愛美の書いた本がもうじき発売されることを前もって知っているのも彼だけなのだ。彼ならきっと、園長先生にはそれとなく報告しているだろうけれど。 (どうせなら、立て続けに二冊発売される方が園長先生や他の先生たちも、もちろん純也さんも喜んでくれるだろうな……)「――ところで岡部さん、わたしの長編の方はどうなりました? データを送ってから一ヶ月以上経ってると思うんですけど」 そろそろ出版するかどうかの決定が下される頃だろうと思い、愛美は岡部さんに訊ねてみたのだけれど……。「…………すみません、先生。それがですね……、あの作品は残念ながら出版できないということになってしまいまして。つまり、ボツということです」「えっ? ボツ……ですか」 彼の返事を聞いて、愛美は目の前が真っ暗になった気がした。岡部さんはあれだけ作品を褒めてくれたのに、熱心にアドバイスまでくれて、書き上がった時にはものすごく喜んでくれたのに……。(なのに……ボツなんて)「だって、岡部さん言ってたじゃないですか。『これは間違いなく出版されるはずです』って」「いえ、僕はあの作品を気に入ってたんですけど……、上が『ダメだ』というもので。僕も本当に残念だとは思ってるんですが、まぁそそういう次第でして」「そんな……」 岡部さんもガッカリしているのだと分かったのがせめてもの救いだけれど
彼も反省してたんだって知って、わたしは彼を許してあげることにしました。やっぱり彼のことが好きだから、仲違いしたままでいるのはつらかったの。仲直りできてよかったって思ったのと同時に、どうしてもっと早くできなかったんだろうとも思いました。フタを開けてみたら、こんなに簡単なことだったのに。 純也さんに、この秋に発売されることが決まってる短編集の売り込みもバッチリしておきました(笑) わたしが作家になって記念すべき一冊目の本だもん。ぜひとも読んでもらいたくて。 純也さんは今、まだオーストラリアにいるそうです。あと二、三日したら帰国するって言ってましたけど。 日本とオーストラリアには時差は一時間くらいしかないけど、あっちは南半球なので季節が真逆だっていうのが面白いですね。「こっちは寒さが厳しいから、早く日本に帰りたいよ」って彼は言ってました。帰ってきたらきたで、こっちはまだ残暑が厳しいからあんまり過ごしやすくないけど。そういえば、オーストラリアってクリスマスシーズンは真夏だから、サンタクロースがトナカイの引く雪ゾリじゃなくてサーフボードに乗って登場するんだっけ。 付き合ってる以上、純也さんとはこれから先もケンカするかもしれないけど、今回のことを教訓にして早く仲直りできるようにしようと思います。どっちかが折れなきゃいけない時には、なるべくわたしが折れるようにしたい。純也さんだって、そんなに無茶なことを言わないと思うから。 もうすぐ、編集者の岡部さんがさっき話した短編集のゲラ稿を持ってくるはず。そしたら、いよいよ商業作家としてのお仕事が本格的に始まります。長編の方はデータを送ったきり、まだ連絡はありません。今ごろ出版会議の真っ只中ってところかな。どうか出版が決まりますように……! かしこ八月三十一日 いよいよ商業デビューする愛美』****(純也さんがこの手紙を読むのは日本に帰国してからだろうな……。どうか、あの小説の出版が決まりますように!) だってあれは愛美が初めて執筆に挑戦した長編小説で、本として世に出るために書いていたのだから。自分でも、もしかしたら大きな賞とか本屋大賞が取れるんじゃないかと思うほどよく書けたという自負がある。 ――ところが、世間はそう甘くなかった。
****『拝啓、あしながおじさん。 お元気ですか? わたしは今日も元気です。 今日、さやかちゃんと一緒に〈双葉寮〉に帰ってきました。明日から二学期が始まります。 今年の夏休みも、ワーカーホリックの中学校の宿題はバッチリ終わらせました! さやかちゃんも。 珠莉ちゃんはこの夏、モデルオーディションを何誌も受けて、ついにファッション誌の専属モデルに合格したそうです! わたしに続いて、珠莉ちゃんも夢を叶えたんだって思うと、わたし嬉しくて! 二学期には自分の進路を決めなきゃいけないから、多分一学期までより学校生活も忙しくなりそう。わたしは作家のお仕事もあるから、他の子たち以上に大変だと思う……! でも、わたしと珠莉ちゃんはもう進学する学部を決めてるからまだいい方かな。問題はさやかちゃん。まだ福祉学部にするか、教育学部にするかで迷ってるみたい。わたしは彼女がどっちを選んでも、全力で応援してあげたいと思ってます。 ところでおじさま、聞いて下さい。わたし今日、やっと純也さんと仲直りできたの! 実は夏の間ずっと、彼といつ仲直りしたらいいのかタイミングをうまく掴めずにいて、わたしも気にしてたの。 確かに七月のケンカでは、わたしにヒドいことをさんざん言った彼の方が大人げなくて悪かったけど、わたしもちょっと意固地になりすぎてたのかなって反省したの。「メッセージを既読スルーしてやる」とは思ってたけど、彼からはまったく連絡が来なくて、だからってわたしから連絡するのもなんかシャクで。 でも、やっぱり仲直りしたいなと思ってたタイミングで、おじさまにも話した彼からのあの上から目線のメッセージが来て。わたしはさやかちゃんのご実家に行くことにしたから、その時にも仲直りはできなくて。 で、今日思いきって彼にメッセージを送ってみたの。電話にしなかったのは、彼がオーストラリアにいるってメッセージを送ってきてたからっていうのと、電話で話すのは正直まだシャクだったっていうのもあって。そしたらすぐに既読がついて、彼から電話してきてくれたの。 純也さん、「大人げないのは自分の方だった。ごめん」ってわたしに謝ってくれました。彼はわたしの自立心とか向上心が本当は好きだけど、同時に自分に甘えてくれなくなるんじゃないかって、それを淋しく感じてたみたい。「男ってバカだろ?」って言って笑ってました。
「……純也さんは今、まだオーストラリアにいるの?」『うん。こっちは今、冬の終わりって感じかな。でも寒さが厳しくてさ、早く日本に帰りたいよ。そっちはまだ残暑が厳しいんだろうな』(あ、そっか。オーストラリアは南半球だから日本と季節が真逆になるんだっけ) 地球の反対側にあるオーストラリアは、日本と時差はほぼないに等しいけれど、その代わり季節が逆転しているのだと愛美は思い出した。クリスマスにサンタクロースが雪ゾリではなく、サーフボードに乗ってやってくるというのが有名なエピソードである。「そうなんだよね。明日から九月なのに、まだ真夏みたいに暑いの。純也さん、日本に帰ってきたら茹(ゆ)だっちゃいそう」『それは困るなぁ。でも、あと二、三日後には帰国する予定だから。仕事も立て込んでるみたいだしね。でも、どこかで予定を空けて愛美ちゃんに会いに行くよ』「うん! じゃあ、気をつけて帰ってきてね。わたしも明日からまた学校の勉強頑張る。あと、短編集のゲラのチェックもやらないといけないから、そっちも」『現役高校生作家も大変だな。でも、何事にも一生懸命な愛美ちゃんならどっちも頑張れるって、俺も信じてるよ。……夏休みの宿題はちゃんと終わった?』「大丈夫! 今年もちゃんと全部終わらせたから。――それじゃ、帰国したらまた連絡下さい」『分かった。じゃあまたね、愛美ちゃん。メッセージくれて嬉しかったよ』「うん」 ――愛美が電話を終えると、嬉しそうに笑うさやかと珠莉の顔がそこにはあった。二人は通話が終わるまでずっと、成り行きを見守ってくれていたようだ。「純也さんと無事に関係修復できてよかったじゃん、愛美」「お二人がギクシャクしてると、私たちも何だか落ち着かなかったのよねえ。だから、無事に仲直りして下さってよかったわ」「さやかちゃん、珠莉ちゃん、心配かけてごめんね。でも、わたしと純也さんはこれでもう大丈夫。見守ってくれてありがと」 思えば七月に彼とケンカをしてから、この二人の親友にもずいぶんヤキモキさせてしまっていた。彼女たちのためにも、こうして無事に彼との仲を修復できてよかったと愛美は思った。「――さて、一応形だけでも〝おじさま〟に報告しとかないとね」 あくまで愛美が「純也さんと〝あしながおじさん〟は別人」、そう思っているように彼には思わせておかなければ話がややこしくなる